書評 “宇宙消失”

1992年のグレッグ・イーガン作。翻訳は山岸真による。全2部(第1部1~4章+第2部5~13章)+エピローグ+訳者あとがき+解説(前野昌弘による)で約410項。英語原題は“QUARANTINE”(隔離)。メディアで名前を目にする機会も多いイーガンの長編作品。

元警察官で個人調査員のニックへ人探しの依頼が舞い込んだ。このテの仕事では珍しいことでもないが、依頼主の素性は一切不明。条件と捜索対象者の情報だけが一方的に送り付けられてきたのだ。行方をくらましたのは32歳の女性ローラ。先天性の脳障害により、5歳の頃から入院生活を送っている。自活能力がないのはもちろん、コミュニケーションも成り立たず、単独行動は歩行と摂食がかろうじて行える程度。そんな彼女が完全看護(加えて監視体制)だった病院から忽然と姿を消し、警察の捜索もむなしく4週間たった今も手掛かり一つ見つかっていないと言う。端末に向かい確認を済ますと、仕事を引き受けたニック。窓から空を見上げると、きらびやかな地上の喧騒とは裏腹に、吸い込まれるような漆黒の夜空が広がっていた…
人智を超えた現象に見舞われ、人類が星々の光を失いすでに33年を経た2068年。人々は日常を取り戻していた。科学技術は今なお発達し続けているものの、平和や安寧には程遠い。宗教がはびこり、過激な思想からなるテロ行為が繰り返されるなど、社会情勢は混沌としている。そんな中でニックのローラ探しが始まる。それがニックの、人類の認識からおよそ埒外にある世界との関わりになろうとは、知らずに─。


以前に短編集“祈りの海”を読み、現実より発展したITや医科学を行使する人類、またその対極に思える思想や宗教心を取り扱った作風が印象的だったイーガンの作品とあって、期待が大きかった。カバー背面等に記された概要で興味をひいたのは、量子論…量子力学を取り扱った作品であろう点である。なおイーガン作品については、漫画“バーナード嬢曰く。”で取り上げられたらしい事もあって、元来あったSFファンからの注目にプラスし、サブカル方面からの新たな関心も得たようだ。ネット漬けな私の日常において見聞きする機会が増している。

理解しようと努めながら読み進めたが本作は難解だった。前回記した“殺す”の読了後に読み始め、2015年11月中旬~末までに1回は読み終えたのだが、理解度に自信が持てず、再度読み込むまで記事をしたためる事を断念した。時を同じくしてジャンクで入手したlenovo製ラップトップPCであるG550の修復やセットアップ、及びそれらが無事に済んだ機体にかまけるようになり、本書をベッドサイドに放置。日課として習慣化していたステッパによるエクササイズ中の読書は、G550を用いた動画鑑賞に取って代わられ、読み直しを中断したまま年を越してしまった。それでもようやく全編を2回以上読み込むなどし、本記事の執筆に取り掛かっている次第である。今回あらためて“頭を使わない受動的なメディアによる娯楽”に抗う難しさを痛感した


先述した経緯もあり、これまでで一番読み込んだと思えるが、それでも理解に及べたとは思いがたく、こうしてキーを打ち込みながらも葛藤がある事をご理解いただきたい。

物語の導入に変わった点はない。冒頭で多少違和感を感じる内容があるものの、主人公の回想や発言などから、作中世界の常識(過激な発展を遂げたITやそれを用いた生化学的対処が大衆化している)として納得できる。ニック個人の身上についても、冒頭では不明なもののある程度は察しが付き、その内容は序盤で明かされる。
なにより驚くべき設定は作中の人類社会が置かれている状況にある。発生から30余年を経てある程度の平常を取り戻していることに驚かされはするものの、改めて考えてみれば「確かにそんなものかもしれない」とも思える。なんと人類は、2034年11月15日に突如現れた一切が謎の障壁<バブル>により、太陽系外から隔絶された状態にあるのだ。このため作中世界で夜空を見上げても、星の光は(太陽系内の物を除き=その大半が)見当たらない。恐るべき事態に思えるが、実は拍子抜けするほど影響がない。太陽は輝き続け、地球を含めた惑星たちも変わらず回り続けている。閉じ込められたと言う感覚に共感できる一方、地球に最も近く、作中世界では唯一人類が降り立った地球以外の惑星である火星すらロクすっぽ調査が済んで居ない。そんな中で“冥王星軌道の約二倍(項29行14第1部1章)”と言う想像を絶するスケールで囲われたことに、すくなくとも現段階で何の意味があろうか?

自然現象とは思えないその障壁を一体だれが何の目的で築いたか?と言う疑問も残るが、築かれた障壁の正体すらよくわからない人類に、その造物主や思惑を推し量るすべがあると考えるのは思い上がりも甚だしいだろう。かくして人類の大勢は、決して忘れはしないものの、日々の生活で気にすることや、結論を出す事を先送りにした状態にある。そのような大勢とは別な、半ばヒステリやパラノイアを起こした感情的な連中と、そんな彼らに狙いを定めた商業的煽動家による思想や宗教が大きな社会不安の種になっている。中でも《奈落の子ら》は影響力が強く、テロ行為も過激を極めた。かつての職業柄、ニックもその被害にあい妻を亡くしている。

その様な情勢下でニックが請け負うローラ探しの依頼。人探しと言う依頼内容自体はありがちだが、姿を消した人物を鑑みるに自ら行動を起こしたとは考えにくい。他者による連れ去りとしても状況からは信じがたく、なによりローラを連れ去る理由が見当もつかない不思議な案件である。とは言え、より可能性が高い連れ去りのセンで追い始めるニック。先天的な能力と後天的、人為的に身に着けた能力の双方をいかんなく発揮し、ローラと思しき足取りを追って一路、新香港(作中におけるオーストラリア北に勃興した新生国家)へ飛ぶのだが…。小説にはありがちな、悲哀を抱えた元刑事による奇妙な人探しで始まった物語は、ローラを追ってたどり着く新香港の地で事態が変わってしまう。


新香港後の展開…特に第2部以降…はそれまで以上にスリリングだ。展開のスリリングさもさることながら、注目は主人公ニックを中心とした登場人物の情動にある。作中の世界ではナノマシンなど諸技術によって、人間の情緒その他を人為的に操作することが可能な、そうできて当前の世界で、AIのような別人格すら脳内に構築可能である。反射作用をはじめとした自律神経の働きはもちろん、ホルモンその他を制御下に置くことが可能で、望みさえすれば衝動や感情を抑制できる。それら影響下における思考や言動は、きっかけ以外のどこまでが意思と言えるか?疑問を感じ仕方がないのだが、作中のニックは「神経解剖学の問題(項281行10第2部10章)」と言い切り、その際の主張には説得力すら感じさせられる。

ローラの捜索をきっかけに始まる新香港の生活において、ニックに様々な邂逅が発生する。中でも重要なのはBDIと呼ばれる組織とそこで出会うボランティアで被験者を務める玻葵(ポークウイ)並びに研究者を務める劉(リウ)の二人である。彼らが取り組む研究が本作のテーマとも言える量子力学の観測問題である。彼らの登場以降、作品の内容は難解を極める。あらゆる可能性が交錯し、違いは確率しかない世界にはまり込んでしまうのである。そういった世界でのニックの立場を評する言葉は、“訳者あとがき”のサブタイトル“シュレディンガーの猫の身にもなってみろ!(項387行1)”に見事だが、本作でのニックは観測される側であると同時に観測する側でもあり、完全に受動的な箱の中の猫な訳ではない。そもそも猫と観測者と言う一対一の単純な系ではなく、観測者でもあり観測される者でもある多数の人物がひしめく人間社会=究極に複雑な系=可能性が指数関数的に増大している環境の話である。主人公ニックらの会話や回想で一応の納得に至っていても、読者(=私)側は全然追いつけない。

その様な量子論的な問題が、探していたローラが姿を消した際の謎に、33年前に出現した<バブル>の謎に、そして人類が備えていることに無自覚だったとされる、ある量子力学的な特質に、と言及が及んでいく。ストーリ展開と論理モデルの双方が見事で興味深い。


本作は非常に興味深い設定や論旨を、純粋に楽しめるシナリオで展開した良作と言える。その一方、教養や理解力において読者への要求が高く感じられる。結末も明確さに欠け、作品全体をどう解釈したらよいか悩ませられる。要素別に見ても序盤と中盤以降で存在感がアンバランスな《奈落の子ら》の意義、ローラを通してニックに接触した知性体の思惑などを私は読み取れないままでいる。また主人公ニックと玻葵(ポークウイ)のその後、新香港とそこで起こった事象を人類がどう消化するのか?など、作中世界の本作後が気になりもする。

作中を通して漂う雰囲気…未知のハイテク、はびこる思想や宗教、印象的な第2部13章ラストの大混乱…には、アニメ映画“AKIRA”を、またBDIの研究員として登場する劉(リウ)には、同じくアニメ映画“マクロスプラス”に登場する“マージ・グルドア”を、作中で多用される<モッド>等、生医科学とITの融合…特に脳を含めた人体との統合には、以前に読んだ“マジック・キングダムで落ちぶれて”を、人為的な情動の操作と自我については、これまで読んできたフィリップ・K・ディックの作品群を思い起こさせられた。


個人的に本書は、作中人類の置かれた特殊な状況、思想や宗教を発端とし頻発するテロ行為などで現実の昨今を彷彿とさせ高いリアリティを感じさせる世界情勢、医科学分野が高度に発達した人類社会で問われうる自我の定義、事象の認識…量子力学の観測問題に包含される驚くべき可能性(広大な宇宙がたった一人の知覚に左右されているかもしれないとは!)の言及などが印象的だった。それら印象の要約は、巻末(項387~395)にある“訳者あとがき”に見事(さすがプロは要点をまとめるのがうまい)で我が意を得た。一つ同意できないのは、主人公ニックは人為的な操作後の自我について考え抜きはしたものの、一旦クリフを越えると驚くほどあっさりと決着をつけ確信してしまう。この態度は考え抜いたという印象が薄く、主人公ニックの断言口調に疑問を抱き続けた玻葵(ポークウイ)の方が思慮深かい印象が強い。

訳者である山岸真による“訳者あとがき ”は明るいライトなノリが印象的であった。前野昌弘による“解説”は作中に登場した実験をはじめとした量子力学の解説で充実している。これらあとがきや解説に結構な項数が割かれている辺りに、本書の難解さが見て取れる。


脳内の神経細胞に起因するあらゆる反応を人為的に操作しうるとなれば、それは画期的で望外の喜びである。プログラミング手法さえ構築できれば、スタンドアロンであらゆる体験が…錯覚で良ければ一瞬のうちに永遠を過ごす事すらも可能となる。
完全にパーソナルな空間の脳内であらゆる自由が保障されるなら、事あるごとに自由意志と多様性に言及し、それでいながら他者と価値観の共有ができずストレスを感じるヒトと言う生き物には福音としか思えない。失敗した現実に戻る理由を思いつかない私が手に入れたら、没頭しそのまま最期を遂げるだろう。その場合、哀れなのはその生涯と残された骸、何より人生を賭して私を育んだ親である。んじゃ。

<<書籍データ>>
宇宙消失
1999/08/27 初版
2000/04/07 3版
著者 グレッグ・イーガン
訳者 山岸真
発行所 (株) 東京創元社
創元SF文庫 711 01
SF イ 1 1
ISBN4-488-71101-4
定価 (本体700円+税)

C-Low について

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